BOYS(散文詩)

スパイに憧れる人はスパイとはすなわち汚れ仕事であるということ、自らの手と良心を犠牲に捧げしかも見返りの余りにも乏しい報われない仕事であると知らない。

求められるものはまず何よりも信念に殉ずること、自分の信ずるもののため自分を搾取されることを厭わぬ狂信者の純情である。

七十年代の一歩手前のその時代、大学は、ことに東京大学学生運動のメッカであった。

彼は確かに若くはあった。しかし彼らに紛れて馴染むためには少し誤魔化すことを必要とした。彼の知力は確かに彼らにも劣らぬものだ。この任務にはそれは必須の条件であり、そしてそもそもスパイにはそれは当然期待される資質であった。

橘(たちばな)と彼は多少は親しくなった。

校内の或るサークルの代表である。橘には人を自分の側に取り込む人誑(たら)しの魅力と危険性をかいま見た。控えめな男だが心をつかむひと言と余裕を巧く味方につけている。

彼はこのハンサムな若者にすぐに好感を抱いたから、余り親しくはならないようにしたのだ。いつか裏切る時のため、

その時がいつか来るのは規定路線のそう遠くない未来と思えた。

 

或る日の暇な頃合いのこと、水曜日の昼餉(ひるげ)を食べ終わった頃のことである。食堂で彼の姿を認めると、彼が隣に座った。橘である。

そうして前置きなしにこう言った。「君は正義を信じているね」

「信じているよ、自分の側の正義を。君やみんなとおなじで」

「だけど正義というものが人にどんな犠牲を要求するものか、大方の奴は知らないんだ」

「知らないね。だけど知ってもいる。ここのカレーが二十円値上げしたならそれに抗議するのが正義。そのためにケチ臭い奴と思われたならそれが犠牲だ」

「庶民とはそういうものだ。好きだね、僕は」

「同意。僕も好きだ」

彼は、橘は何か複雑に混在した妙な顔をした。微笑の中に哀しげなほのめく鈍い痛みがあった。そうして彼はこう言った。

彼は彼の耳もとで言ったのだ。

「君を尊敬するよ。君の払った犠牲のために」

 

この時彼は彼のことを愛した。

人誑しの魅力に堕ちた。

 

 

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これ、最初はずばりボーイズラブというタイトルを考えていました。でも、それ以外の展開も考えられるなと。もう少し長さがあったほうが良かったかもと思わないでもない。いや、あったほうが良かった。エピソードが一つは足りない。と今は思う。

当時のお金の価値の基準がよく分からず。