悪の表層的プロット(ジェイムズ・エルロイとアンダーワールドUSA三部作)短評


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ジェイムズ・エルロイ。その波瀾というか暗澹としたものに富んだ生い立ちは、余りにも有名なのでここでは敢えて省く。この人について書かれた文章には、ほぼ確実に、そのことが最初のほうに前置き的に書き記されているのである。

暗黒小説というジャンルにおいてしばしば最大の巨匠と謳われるこの人の作品に、筆者は十代のころ心酔した。十代なので潔癖である。実質の伴わないうわべばかりの「正しさ」に嫌悪感を抱くその精神の振り子の先は、時にそれとは真逆のほうへと振れたので、どす黒い闇夜のふところに抱かれた街で展開される、悪い奴らの血塗られたどろ沼犯罪劇なぞに、惹かれも魅せられも夢中になりもしたのです。最も広く知られ、うち二つは映画化もされたLA四部作は勿論のこと、初期作「キラー・オン・ザ・ロード」と自叙伝的作品「わが母なる暗黒」は、のちの人生に何かしら影響を及ぼしたと思えるほどに、深く深く、当時ビールもろくに飲めなかった半子供半サクランボ男子の筆者の胸を、それはもう深く見事に抉ったのでありました。

さて。

五十年代のロスを舞台にしたLA四部作のあと、エルロイが次に挑んだのは、六十年代のアメリカ全土を舞台にしたさらにスケールを拡大した大長編、アンダーワールドUSA三部作である。歴史を歴史の裏で暗躍した悪党どもの物語として再構成しようとしたこの三部作は、しかしエルロイの読者から不評をもって迎えられた作品として、今なおこの国では高い評価を受けられずにいるのです。

理由は明白である。何か無味乾燥で、以前の作品にあった心胆を揺さぶるものがまるで感じられないのだ。エルロイという作家とほぼイコールで結びついていた情念の暗い濁流、それがない。それが余りにも稀薄である。

日本における暗黒小説の第一人者、馳星周氏は、確かどこかでそれを舞台を拡大し過ぎたせいではないかと指摘していた。ロスという一つの街に作品の持つ情念が囚われとじ込められてあることで、暗い世界を濃密にかたちづくっていたLA四部作とは違い、全米を舞台としたことで情念が拡散してしまったように見えると。

そうなのかもしれない。狭い世界のお話だからそこで高まる濃度がある、つまり舞台の選択が作品の持つ情調の濃淡を変えるというのは、事実確かなことだろう。ところ変われば作品の雰囲気も変わるというだけのお話ではない。舞台の選択は書き手の心理にも何かしらの影響をあたえ、また作品の方向性や着地も変えることがある。作品の感触を違ったものにもするのだ。しかし筆者は実は理由は別なところにあると睨んでいる。そしてそのために、エルロイのファンとして少し寂しい思いがしているのです。

表現者が表現へと向かう動機の部分。エルロイの場合、それはまず第一に情念の解放、脳と心に巣食う抑えがたい想いを解放することにあったと思う。しかしアンダーワールドUSA三部作は、その情念がない。全くないのとは違うけど表面的でかつてのような狂おしいものではないように映る。ならば恐らく、動機が変わったのだと。つまり情念の解放をエルロイはもはやそこまで必要とはしていない。つまり解放しなければならないほどの狂おしいものを、もはや抱えていないのでは……

アンダーワールドUSA三部作。概要をこの上もなく大ざっぱに語るなら、要するにケネディに始まりニクソンに終わる。そしてかつてのエルロイから切実なものを失くしたものが延々と続きます。すなわち、荒唐無稽なありとある悪のプロット。ファンとして贔屓目の曇り眼鏡を使うなら、星五つを満点として星三つ。

でも、裸眼で見れば二つかも…… 涙

 

 

✳ 画像はフリー素材です。

実は読んだのはずっと前です。今さら評。勿論、おれ一人で書いたものです。フェイスブックとも何の繋がりもありません。

✳ エルロイで一番有名な作品の映画化。予告。

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